レビュー詳細

私は歌詞について述べたり考察したりするのが得意ではありません。それは私が音をまず第一に聴いているところがあり、悪い言い方をすれば歌詞について考えるのは二の次となっているからです。そんな自分も歌詞が好きになる曲はありまして。大きく分けると2種類あるのですが、1つはあまりにもたくさん聴き込んでいるためにどこかで自然と曲の歌詞が入ってくるパターン(聴き込んでいるものは全てというわけではないです。入ってくるものと入ってこないものは何の違いがあるんだろうね…)。もう1つは、曲中のどこかの歌詞に強烈に惹かれ、そこから歌詞を意識するようになるパターンです。

この「二月の生活」は後者のパターン。ではその惹きつけられたところはどこかというと、以下の歌詞です。

『最低な生活を捨てて』
『どこか知らない街に行きたい』

サビ冒頭の歌詞ですね。初見時にこの歌詞を聴いた私はこう思いました。
「この歌詞、私のことだ・・・。」

皆さんは知らない街に行ってしまいたいと思ったことはありますか?私はあります。こんな思いを抱くのがどんなタイミングなのかという例を挙げると、今自分の置かれている環境に疲れ切った時。もしくは、自分の無力さや至らなさに失望した時でしょうか。そういう時にふと、「誰も自分のことを知らない街に行けば楽になれるだろうか、また一からやり直せるだろうか」と考えてしまうことがあるんです。

ともあれ、同じ思いをした経験のある私はまずこの歌詞に吸い寄せられ、曲を流しながら歌われる歌詞を意識することになります。続くサビ後半ではこのように続きます。

『際限なく続いた夢を破って』
『僕は歩いていくと誓うよ』

「夢」という単語が出てきました。
ここまで視聴していたMVはステッチで囲われモノクロの足跡のみで表現するという非常にシンプルかつ示唆的な映像で、この作品は何か用意されたシナリオがあるわけではなく、作者の心情を表すタイプの曲なのではないかと思えます。それを踏まえて歌詞を振り返って、予想を立てました。「この曲は作者自身の夢について語っている曲なのではないか」と。

もう少し踏み込んで考えましょう。作者自身の夢ですが、作者は作曲をしている人ですから「音楽で成功する」に近しいものではないかと考えられます。そしてサビ冒頭の歌詞と合わせて、こんな歌詞なんじゃないかと推測してみます。

「音楽で成功したいという夢があり、これを叶えるために最低な生活を続けている。もう夢は諦めてそんな生活を終わらせ、いっそ知らない街にでも行きたい」

“音楽で成功したい”と仮置きした夢を、たとえば具体的に動画の再生数と考えてみます。投稿を始めた当初は100再生が目標だとして、それが達成されたら次は1000再生、次は10000再生、100000再生・・・といったように、一度目標を越えたとしてもそれで満足することなく、次はさらに上のゴールを設定するのが自然だと思います。

もしかしたらこの目標達成のための苦労とそれを完遂してもまた次の目標を”生んでしまう”という終わりのなさに疲弊してしまったのかもしれません。そういった思いからの『夢を破って』なのではないでしょうか。もしくは、最初に掲げていた夢が途方もないことを道中で知って悲観している、と考えることもできます。再生数の喩えで言うなら、”VOCALOID神話入り”を目指してボカロPを始めるような感じでしょうか。ゆくゆくはそうなりたいと考えるクリエイターはもちろん多いでしょうが、掲げたものと現在地とのギャップが大きいとそれだけ苦しむこともあるでしょう。再生数以外で考えてみるなら、たとえば「音楽で生活できるようになる」あたりですかね?

さて、曲は進みやがてクライマックス直前の落ちサビに到達します。その時の歌詞が以下です。

『曖昧な愛しさを連れて』
『僕は知らない人になりたい』

ここで上に書いた私の推測はほとんど確信に変わります。『知らない街に行きたい』と『知らない人になりたい』は根幹が同じだからです。今の環境が許せない。今の自分が許せない。環境を変えるという方法でなく、自分自身を変えるという方法で叶えたいという違いこそありますが、”一からやり直す”という願望が発端にある点で一致しています。
そして、『曖昧な愛しさ』。これについては後で書こうと思います。

ここまでで、私が感じ取った歌詞の概要をもう一度振り返りましょう。
「最低な生活を続けてでも音楽で成功する夢を追っているが、その夢を諦めようとしている」
他の歌詞を見ても納得できる部分がいくつかあります。

『冴えない僕もいつかここを離れる』→夢を叶えるための活動をやめる。つまり音楽活動をやめる。
『変わっていく僕を許してくれないか』→変わっていく=夢を諦める。
『これから僕らはどこへ向かうのだろう』→音楽に生活を捧げてきた自分がこれからどう生きていくのか自分でもわからない。
『咲いて 今、飛び出した先で 君が幸せだと願うよ』→咲いて=成功。つまり、”君”が音楽で成功して(メジャーデビュー等)羽ばたいていくのを祝福している。

・・・本当につらい歌詞ですね。『最低な生活を捨てて』という悲鳴にも聞こえる歌が再生するたびに胸に刺さります。夢という人生の命題をどうやっても達成できない現実の無情さ。そこに絶望する語り手の心情がありありと描かれています。

さて、私の解釈を披露したところでこの文章は終わり・・・ではありません。この解釈にはまだ続きがあります。何が続くのかというと、「歌詞の語り手がどんな行動をしているか」です。

結論から言いますが、この語り手はこの曲の後も最低な生活を続け、夢を追い続けていると私は考えています。つまり、最低な生活をやめたいと考えながらも、それを今もやめないでいるということです。

そう思った理由をいくつか書いていきます。
まず『手を振るあなたもどこかで見送ろう』という歌詞。「見送る」ということは今いる場所を離れるのが”君”で、逆に語り手は離れていないと捉えられます。

次に映像です。注目してほしいのは2:56~3:24。直前に挙げた歌詞も関わってくる、2回目のBメロからラスサビの前半にあたる場所ですね。ここでは上部と下部に足跡が表示されていて、『知らない人になりたい』のところで足跡が歩を進めていく映像が差し込まれたのちに、上部の足跡がなくなっている画面に切り替わります。足跡(=人間)の向きを考えて、上部の人間が画面外へ歩いて行ったという表現でしょう。ここで歌詞についても注目してください。2:56~3:24の歌詞は以下です。

『手を振るあなたもどこかで見送ろう
曖昧な愛しさを連れて
僕は知らない人になりたい
咲いて 今、飛び出した先で
君が幸せだと願うよ』

映像においては歌詞とリンクした内容を表現するという技法が使われることがあるかと思います。ここではそのテクニックが使われているのではないでしょうか。画面上部から画面外へ歩いていく人は咲いて飛び出していく”君”。画面下部の人は”君”の旅立ちを見送る”僕”なのではないか。私はそう考えています。

ここまで読んでいただいたところで、もう一度映像に戻ってください。上部の人(すなわち”君”)がいなくなった後、下部の人(すなわち”僕”)は引き返していますよね。元いた場所へ戻っていくことから、この語り手は自分も旅立つということをせず、元の「最低な生活」を続けているのではないかと推測することができます。
この部分はラスサビにあたる箇所で、曲中で最も盛り上がるシーンであることを思うと、曲中でも強いメッセージ性を持ち得る場面ということで、私の解釈をかなり強く補強している表現だと言っていいのではないでしょうか。

さらに続けますが、ここからは無根拠な推測の色が強くなります。
『どこか知らない街に行きたい』という歌詞と『僕は知らない人になりたい』という歌詞について。このふたつは上に書いた通り同じ主張をしており、配置された場所も1番と2番の同じ場所であることから対応関係にあると想像することは難しくありません。このうち「知らない人になりたい」という願望は、実際には叶えられないものですよね。同じ主張であることを踏まえると、「知らない街に行きたい」という願望もまた――理屈上は実現可能なことだとしても――少なくとも語り手は実行しないものと考えている、そう暗に示しているのではないでしょうか。

そして『最低な生活を捨てて』『際限なく続いた夢を破って 僕は歩いていくと誓うよ』について。このふたつはサビの歌詞ということもあり曲中で複数回登場するフレーズで、「最低な」「際限なく」「誓う」といった大袈裟な表現が目立ちます。単純にそれだけの決意を明示しているという考えるのが普通なのかと思いますが、これまでの私の推測を踏まえると、どこか自分に言い聞かせるような言葉に思えてならないのです。

夢を叶えようと邁進する日々、そのために削られる私生活。どれだけ足掻いても夢の実現は遠く(もしくは、どれだけ達成しても後から生まれてくる”次の夢”に)次第に心は摩耗していく最低な生活。一度きりの人生、叶わない夢を抱いたまま時間を消費するくらいなら、いっそのこと違う人生を歩むべきではないか、こんな夢は諦めるべきではないか。そんな理性が上げた悲鳴こそがこの誇張された歌詞の含意なのではないでしょうか。頭ではわかっているのに、でも実際は諦められない。自分と同じように苦しんでいる人も、苦しみに耐えられず去りゆく人も、自分を置いて羽ばたいていく人も見てきて、それでも理想を追い続けてしまう・・・。

いかがでしょうか。考えようによっては当初の「夢を諦めようとしている」という歌詞よりさらにつらい歌詞だといえると思います。というか、私はこちらの方が圧倒的につらい。そもそも私は自分の音楽活動に対する葛藤、苦悩、諦めといった感情を描写している曲にひどく弱いんです。
しかし、そんな私個人の嗜好を抜きにしてもこの作品に込められた苦痛は尋常ではありません。だって、これだけ「最低な生活」と唾棄している毎日を、違う人生を歩みさえすれば解放されるこの生活を続けているんですよ。じゃあどうしてそうしないのかって、夢を諦められないからです。夢にかけてきた日々や想いが、本人にとってとてつもなく大きいからです。

曲中で歌われる『曖昧な愛しさ』とは、このことなんだと思います。
それはとどのつまり、語り手の持つ夢それ自体とそこにかけた純粋な想いのことだと。こんなものがあるせいで苦しいのに、「知らない人に」なるとしても同じ思いを持っていたい。それは自分と異なる存在であればその夢を叶えられるかもしれないから、あるいは、たとえ違う人になれるとしても同じ愛を持っていたいという思いの表れなのでしょうか。(後者だといいな・・・)
夢って本当に綺麗で残酷だ。「夢を諦めることができない」とは、まるで呪いのようです。この方の生活が最低から少しでも良いものになってくれたらと、そう願わずにはいられません。

この甘い展望と無慈悲な現実は、われわれに無関係なことでは決してありません。人間誰しも「こうしたい」「こうありたい」という理想像があって、それと現在の自分とのギャップに苦しむことがあります。たくさんの努力をしても届かなかったり、叶わないと諦めて忘れた振りをしたくなったり。
その葛藤に正面から向き合い、その上で自分が描いた希望や想いは間違いなく本物なのだと寄り添ってくれるひと時の安心感がこの曲にはあります。同時に、嘆きながらも希望と絶望のどちらもを見据えて夢を追い続ける姿勢は、私の目にはどこまでも眩しく映ります。

私にとって「二月の生活」は、同じ苦しみを持っていてくれる、その上で立ち向かう美しさを見せつけて奮い立たせてくれる、そんなかけがえのない作品なんです。

最後に、この曲の一番好きなポイントを書かせてください。それは3:21~3:36の、ラスサビで『最低な生活を捨てて』と歌った後のスキャット部分です。
ここに歌詞が紡がれないのが、「最低な生活」の苦痛、夢を諦めることのできないもどかしさ、必死に自分に言い聞かせる虚しさ、そのすべてがここに凝縮されている気がします。繰り返される『最低な生活を捨てて』の、その次の句を綴れないこの悲痛な空白が、何度聴いても涙を誘います。

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